日本語力の集大成 日本語作文小論文検定 検定試験森リン個人受検団体受検検定委員
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 作文文化とは (プロフィールに代えて)



 これまでの歩み

 創造性を育てる作文を目指して

 近年、作文や小論文に対する関心が高まっています。その原因は、三つ考えられます。
 第一は、少子化に伴い学校教育に余裕が出てきたためです。特に、入試の面で、これまでのような多数の受験生を短時間で採点評価する必要性が薄れ、より少数の受験生をより長期間で採点評価することが可能になってきました。その具体的な例は、推薦入試やアドミッション・オフィス入試に見られます。また、公立中高一貫校でも、作文試験を課す入試スタイルが増えているようです。
 第二は、この入試スタイルの変化によって、塾や学校でも作文指導を取り入れるようになったことです。ここでも生徒数の減少によって、個別対応の面が強い作文指導にも対応することができるようになってきました。また、作文指導が国語力の向上に役立つという情報が広がったことも、作文の関心を高めることにプラスになっています。
 第三は、インターネットやEメールの普及によって、ビジネスの現場で文章を書く機会が増えてきたことです。企業の入社試験で、志願者がエントリーシートに文章を書く機会が増えてきたことなども、作文力に対する関心が高まっている要因になっています。

 このような状況の中で、私たちの行っている作文指導・評価も、現在の社会のニーズに呼応したものだと考えている人も多いと思います。現に、問い合わせの中には、受験生やその親からのものも多く、私たち自身も、受験に対応できることを一つのうたい文句にしています。しかし、私たちが二十数年前から作文の指導と評価に取り組んできたのは、このような目先のニーズを考えたからではありません。1970年代に東京都港区の貸会場で大学生対象の作文教室を最初に始めたとき受講生は4、5人でした。その後、神奈川県鎌倉市のカルチャーセンターで最初に小中学生対象の作文教室を始めたときの受講生は小学生2人だけでした。このころの指導の理念は、「個性・知性・感性を育てる作文」又は「創造性・思考力・感受性を育てる作文」でした。その理念は、それから二十数年たった今でも変わっていません。

 しかし、最初のころは、この理念だけが空回りしていました。それは、指導自体が軌道に乗っていなかったからです。作文教育に関する本は何十冊も読んで研究をしていましたが、実際には、学年相応のレベルよりもかなり高いことを子供たちに要求していたようです。現在、教室で小学6年生が勉強しているぐらいの内容を、小学4年生の子供たちに教えていました。また、大学受験生レベルの内容を中学生の子供たちに教えていました。感想文の資料として中高生3、4人にデカルトの「方法序説」を読ませたときは、全員がそのまま寝てしまったこともあります。このような消化不良の指導を続けながら、試行錯誤の中でだんだんと学年相応の指導が実感としてつかめるようになってきました。また、私自身指導が未熟であったために、授業中に騒ぐ子もよくいました。作文の勉強は、他の勉強と異なり、私語が交わされると勉強が著しく阻害されます。そのため、二度注意されたらゲンコツ又は退場というルールを決めて実行していました。もちろん、その厳しさが理由で辞めるという子はいませんでしたが、今になってみると、それほど厳しくしなくてもよかったと思います。

 自分の子供が小学1年生から作文教室を始め、その後ときどきさぼりながらも高校3年生まで勉強を続ける中で、次第に仮説が立証され、指導に現実的な確信が持てるようになってきました。いちばんの大きな確信は、作文の実力は週1回の勉強でつくのではなく、毎日の長文音読と読書でつくというものです。
 指導が軌道に乗るにつれて、もう一度作文指導の理念の現実を結び付けておく必要性を感じるようになりました。そうでないと、作文指導というものが単に受験に役立つとか、国語の成績に結び付くなどというレベルで受け取られてしまうからです。もちろん、作文の勉強が受験の文章力や国語の読解力・表現力の育成に役立つことは言うまでもありません。しかし、それは、あくまでも表面的な目標であって、その先にある作文学習の本質を考えなければ、指導もまた表面的な技術指導で終わってしまうからです。



 これからの教育と作文の本質

 制約のある言語だからこそ可能な創造

 まず、未来の社会が教育に対して求めるものは、もはや受験の合否や国語の成績ではないということです。これまでの社会では、教育の目標は受験にならざるを得ませんでした。いい学校に入ることが、社会へのいいパスポートを手に入れることと密接に結び付いていたからです。ところが、いいパスポートの数が限られている以上、そこには競争が発生します。勉強の競争に勝つことが勉強の目標になるとともに、より合理的な競争を作り出すことが受験の目標になりました。競争を軸に展開された教育から生まれたものは、点数の差がつきやすいところが勉強の中心になるという教育でした。人間や人生にとって必要かどうかということよりも、テストに出そうかどうかということが勉強の目標になっていたのです。
 これに対して、未来の社会における教育は、人間がより人間らしくなることを目標とする教育です。そこには、これまで常識と思われていたものとは異なる教育の姿があるはずです。

 教育の目的は、根本的に言えば、人間の生きる目的である幸福、向上、創造、貢献を実現するための土台を作ることです。
 この教育の目的と結び付けて考えると、作文の本質は、創造にあります。創造とは、既にあるものから、いまだないものを新たに作り出すことです。
 宇宙の本質もまた創造だと言われています。宇宙には、完成されて静止した目的のようなものはなく、ただひたすら新たに創造する動きだけがあると言うのです。この説が正しいかどうかはわかりませんが、固定された究極の目的のようなものがある宇宙よりも、創造自体が目的となっている宇宙の方が納得できる気がします。

 生物の進化も、このような創造の道筋をたどってきました。現在見られる多様な生物群も、それぞれに多様な価値を持って存在しています。そのどれかがほかに比べて進化の道筋で先に進んでいるからと言っても、それは遅れているものがなくなってもいい理由にはなりません。例えば、魚類→両生類→爬虫類→哺乳類という進化の流れがあったとしても、進んでいる哺乳類さえいれば、遅れている爬虫類はいなくなってもいいというわけではありません。多様さというのは、常に途中の過程です。進化の爆発のような現象はめったに起こらないとしても、哺乳類も爬虫類も、これから更にそれぞれの多様さを増していくはずです。その多様さの増大こそが創造と呼ばれるものです。

 この地球上の生物の多様性は、今のところDNA上の遺伝子の組み合わせの多様性と考えられています。生物における創造とは、遺伝子の組み合わせ方の創造と言ってもいいでしょう。組み合わせの創造が可能であるためには、組み合わせにルールがなければなりません。親から子へと確実に遺伝子が伝わるという原則があって初めて、その伝わり方に創造的なものが生まれる余地が出てくるのです。

 同様に考えれば、作文は、思想ないしは言語の組み合わせにおける創造です。ここでも、創造が生まれるためには、その土台に確実なルールがなければなりません。ルールがあるからこそ文章における伝達が可能になるのです。しかし、伝達そのものが作文の目的なのではありません。

 人間以外の動物は、言葉ではないある意志のようなものによってコミュニケーションを行っています。例えば、協同で狩りをする動物たちは、言葉による打ち合わせなどは行っていません。ある肉食獣では、追いかける役と待ち伏せる役が分担されているそうです。異なる役の連携をするものは言葉ではなく、全体の意志のようなもので、ある意味でテレパシーと呼ばれるものの原初的な形態でしょう。
 テレパシーが高度な思想についても行われるようになれば、それは言語よりもスムーズにコミュニケーションを図る手段になると考える人もいます。しかし、伝達がスムーズになればなるほど、その伝達から創造性は失われていきます。制約の多い言語だからこそ、創造が可能であり、その創造性こそが作文の本質なのです。



 これからの教育と読書の本質

 勇気、知性、愛に満ちた読書を

 次に、教育の目的と結び付けて読書の本質を考えると、それは向上と言われるものです。向上とは、自己の現在の状態に新たな価値あるものが付け加わることによって自己が変容を遂げることです。付け加わるものは、上着を着るような表面的な結び付き方で加わるのではなく、自己に消化される形で内面的に加わります。創造を三角形における高さと考えれば、向上は三角形の底辺です。底辺が広くなることによって、高さの可能性もまた高まります。しかし、そのためには底辺となる向上が、真に自分の中に内面化された向上になっている必要があります。

 読書の大切さについては、多くの人が自明のこととして了解しています。しかし、読書の本質についての考察を省略したまま、漠然と読書の大切さを論議するため、その論議の多くは不毛なものとなっています。例えば、読書は楽しいものであるべきだという意見と、骨のある古典から読むべきだという意見が、どちらも相互に噛み合わないまま並存しています。また、速読という技術や、音読という方法が、それが読書にとってどういう意味を持つのか問われないままひとり歩きをしています。

 向上とは、自分をより豊かにする方向で、自分以外のものを自分の中に内面化することです。自分をより豊かにする方向とは、人間の目的である幸福、向上、創造、貢献という面をより豊かにする方向です。それは、言葉を換えて言えば、人間の勇気、知性、愛を豊かにする方向です。創造とは勇気であり、向上とは知性であり、幸福とは自分に向いた愛であり、貢献とは他者に向けられた愛だからです。だから、何のために読書をするのかと言えば、その最も本質的な答えは、勇気、知性、愛を育てるために読書をするということなります。そして、その過程が内面化なのです。

 自分の外側にあるものを自分の中に内面化するとき、そこにはいくつかの異なる方法があります。一つは反復です。人間は、同じものに繰り返し接することによって、それを自分の中に同化していきます。もう一つは感情です。人間は、イメージやストーリーを通して感情を動かされることによって、そのものごとを自分の中に同化していきます。もう一つは意志です。人間は求める意志の強さに応じて、自分の外側にあるものを内側に吸収していきます。よい本を繰り返し読むことが大切なのは、反復することによってその本の中身をより深く内面化することができるからです。漫画や小説が面白いのは、イメージやストーリーによって内面化がより容易になるからです。また、人間が何かを求めているときに出合った本は、急速に内面化されます。

 このように考えると、読書についてのこれまでの議論の多くは、読書の本質ではなくその表面の形態についての議論であることがわかります。勉強か読書かという選択について考えると、勉強の成績を上げるために読書があるのでもなく、勉強の息抜きのために読書があるのでもありません。勉強も読書も自分を豊かにするための方法なのだと総合化して考えることが必要です。楽しい本か難しい本かという選択についても同様のことが言えます。楽しい読書は、感情を移入することによって内面化を容易にする読書です。難しい読書は、意志的に読むことによってより強い内面化を達成する読書です。速読や音読についても同様のことが言えます。速読は、生活に役立つ技術ですが、大事なことはいかに早く多く読むかということよりも、何を読むかということです。音読も、脳を活性化させる働きがあることは否定しませんが、ここでもやはり何を読むかということが重要です。読書の本質が向上であると考えると、単に昔からある有名な文章を読むということではなく、自分を向上させるものを読むという方向が必要になってきます。

 読書の本質は向上ですが、それはとりわけ、言語化された向上です。向上が言語化されているからこそ、その向上が作文における創造の土台となることができるのです。難しい本というものは、一般に、自分にとって新たに接する未知の語彙や思考法が多い本です。難しい本は、だから読みにくいのですが、逆にだからこそ自分の持つ言語を豊かにするという点で価値ある本なのです。

 読書を言語化された向上と考えると、数学や自然科学も、数式や図による外界の内面化という点で、読書にきわめて近いものです。数式や図を言語の一種と考えれば、数学や科学も広義の読書と考えることができます。しかし、あまりに広い定義は、話を混乱させるので、広義の読書を「読書的なもの」と仮に呼びます。すると、同様に、広義の作文も「作文的なもの」と呼ぶことができるでしょう。



 作文文化を作る

 十人いれば十色の個性がある教育を

 教育の目的のうち、創造を主に作文的なものが担い、向上を主に読書的なものが担います。幸福は、これから生まれる、心身についての新たな教育の守備範囲となり、貢献は、やはりこれから生まれる、技術と芸術を統合した新しい工学の教育の守備範囲となるでしょう。

 このような有機的なつながりを持った教育全体の中で、作文と読書を考えていくことが私たちの課題です。そのビジョンは、作文文化という言葉で表されます。具体的には、勇気と知性と愛に満ちた多くの長文を読むことによって自己を向上させるとともに、その向上の土台の上に作文による創造を行うということです。従来の教育の中心は、与えられた答えをいかに早く見つけるかということでした。新しい教育は、答えを見つけることではなく、その先にある、答えのない世界を創造することが中心になります。これまでの教育は、十人いても百人いても、正しい答えは一つでした。これからの教育は十人いれば十人の答えがあるという創造的な教育です。

 そのような教育は、学校という限定された場所で、勉強という限定された時間に達成されるものではありません。社会という限定されない場所で、人生という限定されない時間に、生活の一部として達成され続けるものです。だから、これは作文教育というよりも、作文文化という名称がふさわしいのです。

 文化に必要な要素は、娯楽性、芸術性、超越性です。娯楽性とは、楽しい要素があるということです。芸術性とは、美しい要素があるということです。超越性とは、他では代替できない新しい創造的な要素があるということです。作文文化において、この三つの要素を育てていくことが今後の課題です。


中津原麟(なかつはらりん)
本名 中根克明(なかねかつあき)
1952年2月10日、神奈川県生まれ。
花が好きで、千葉大学園芸学部園芸学科に入学。
しかし、自治会活動に燃え5年間も勉強する。
卒業後、マスコミ各社の筆記試験に次々合格。
すべて面接で落とされる。
25歳からマスコミ志望の大学生対象の作文教室を開く。
29歳で言葉の森作文教室を開設。現在、同社代表。
独学でプログラミングを学び、ウェブシステムを構築する。
2003年小論文解析ソフトを開発。国際特許申請。
2004年日本語作文小論文研究会を開設。現在、同社代表。
現在に至る。
 


作文文化を創造する「特定商取引に関する法律」に基づく表示日作:日本語作文小論文研究会

 
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